EPISODES それぞれの「これから」

チャレンジすれば突破口はある

小泉 匡史さん

(50代)/活動期間:6か月

  • A社(製/総合電機メーカー:海外営業)
  • 岩谷学園よこはまITビジネス専門学校:教員

海外営業時代に感じたエネルギー

「やった!」と思わず声が出てしまった海外勤務の内示。大手メーカーA社に入社後、ずっと上司に伝え続けていた希望が叶った瞬間です。駐在中は、とにかく楽しい毎日でした。今でも鮮明に覚えているのはベトナムの若者に感じた熱気。共に仕事をしていても貪欲に知識を吸収しようとする姿勢と指摘したことへの素直な態度。こうした若者のキラキラした表情に刺激を受け、自分の知見を惜しみなく伝えようと日々過ごしていたと記憶しています。

帰国後、ヒエラルキーを感じて

駐在から4年後、国内で新規ビジネス開発部門への辞令が下されました。帰国後、そこで強いヒエラルキーを感じたのです。決して自分がいない間に組織体制が変化したわけでも、自組織だけが特異な体制ではないことは認識しています。駐在前には当たり前の組織体制が海外勤務を経験したことで「違和感」として映ったのだと思います。いかにこれまで海外勤務で伸び伸び仕事をしていたかが身に染みて感じたものでした。
(このまま定年まで、このような感情を持ちながら仕事をするのだろうか?)時折こんな思いが頭をよぎるようになったある日、目にしたのは「海外実習生の労働問題」。安い賃金、劣悪な環境でベトナムを中心とした海外実習生を働かせたことが大きなニュースになっていました。
「少子化で労働力不足が叫ばれる日本にとって、大切な彼らを育てることが重要なのではないか?」の思いから「彼らが今の環境から脱することができるような手助けができないか?」と考え始めたのです。そしてすぐに日本語教員資格取得のために通信教育を始めました。

転進活動中も軸はブラさず

資格取得後のタイミングでA社の早期退職制度の案内が届きました。家族に相談し「帰国後は以前と違って、辛そうだった」と背中を押され、早々に制度に応募しました。
こうして「日本語教員になる」ことを目標に転進活動がスタートしましたが、なかなか前に進まない日々が続きました。経験がないことが大きな理由ですが、他にも「大手企業出身者に現場仕事を依頼しにくいし、扱いにくい」「給与が大幅に下がるので、内定出してもきっと来ない」といった先入観もあったようで、本当に面接に進むことができなかったのです。やっと1か所内定をもらえましたが「求人票と異なる仕事をお願いする」と言われ、キャリアカウンセラーと相談して辞退するなど、苦労しました。それでも「日本語教師になる」という軸はブラさずに活動を継続していこうと決めていました。

日本語教員になって

コロナが落ち着き、留学生が増え始めたあたりで希望する求人も増えてきました。そこで横浜でも有数の留学生数を抱える現在の転進先である岩谷学園に巡り合ったのです。面接を受けたときにしっくりきたこともあり、これまでの苦労が嘘のようにスムーズに選考が進みました。教員経験よりも「なぜこの仕事をやりたいと思ったのか」「これからどのようなことを実現したいのか」といったWillに重点を置いてくれたからだと思っています。 こうして、念願の日本語教員となり、現在は日本で就職するために留学した学生50名のクラス担任を任されています。日本語授業以上に国内の企業に就職できる力をつけるための授業を担当しています。学生の就職支援で模擬面接や応募書類の書き方、日本の組織の特徴等は、これまでのビジネス経験が大いに生きる場面もあり、「仕事の経験で無駄なことはない」と実感しています。また、授業だけではなく生活全般の指導が必要な時も多々あります。毎日がハプニングといっても過言ではありませんが、それ以上に気づきや変化があることを楽しんでいます。
この学園では、かなりの裁量が任されるので、授業のコンテンツ等は自分で企画することも多々あります。あまり反応が良くないときもありますが、学生が喜んで取り組んでくれる姿を見ると、やりがいを感じます。

転進活動を振り返って

思った以上に進まない転進活動に落ち込むこともありましたが、それでも定期的にキャリアカウンセラーと会話し気持ちをリセットして次に進めることができるサイクルがあったので頑張れたような気がします。また、内定辞退した企業のように「求人票と違う仕事を」と言われても、もしかしたら自分一人では「そんなものかな?」と受諾し、入社後に後悔したかもしれませんが、キャリアカウンセラーに相談することによって回避できた。こうした転進活動での経験も、今後、私が学生に就職支援する時の知見になると感じています。
やりたいことは「チャレンジすることで突破口が開ける」ことを学んだ転進活動でした。